編集長町田厚成の今日もバンクで独り寝
● vol.009 クッキーとの旅
ジョン・スタインベックの書いた『チャーリーとの旅』(1960年発行)は、彼が愛犬チャーリーをキャンピングカーに乗せて、アメリカ中を回ったときの印象を綴った旅行記である。ノーベル文学賞までもらい、その名を告げれば、どこのホテルでも最高の待遇が保証される有名人だったにもかかわらず、彼は名を伏せて一介の旅行者になりすまし、自ら運転するクルマの中で寝泊まりしてアメリカの本当の姿を捉えようとした。独り旅を続ける文豪の淋しさを紛らせるために選ばれた相棒が、老プードル犬のチャーリーである。
大作家が愛した犬とキャンピングカー。
私もそれにあやかって、犬をお供に取材旅行に回ったことがある。ミニチュアダックスフンド(ロングヘア)の雌、クッキー。たまたまケーキ屋でコーヒーを飲んでいるときに思いついた名前だが、その時、私の視線がショーケースのクッキーではなく、チョコレートの方に注がれていたら「チョコ」になっていたかもしれない。
幼犬の時から布団に入れて添い寝してやったせいか、クッキーは無性に私になついている。家内と私を見比べるときも、なぜか私を見るときだけ目を潤ませる。それも、色っぽく流し目を送ってくる感じなのだ。私は、早いうちからこの犬が愛人体質をもっていることに気が付いていた。
取材旅行の当日、2人だけの旅だと知った彼女は、朝から甘い媚態をふんだんに漂わせ始めた。助手席に寝そべる姿が、すでにいつもと違う。身体をS字型にひねり、足を意味ありげにくねらせ、目の中にはハート型の光りを七つも八つもたたえる始末。ささやく声も吐息のように「ワフ!」と切ない。それに気づかず、全く警戒心を抱かないわが家の女房も鈍感な女である。最初にたどり着いた取材先は、ペット禁止のキャンプ場。彼女には静かに車内に潜んでもらうことになった。が、彼女の卓越した運動能力を見誤った私は、クルマのドアを閉める直前に、股の間をくぐり抜けて脱兎のごとく芝生広場に向かって駆けだした彼女の肢体を捕捉することができなかった。
「ペット禁止」をはっきりと伝える看板の前を、水を得たサカナのように走り回るクッキー。タープの下でお茶を楽しんでいた熟年夫婦がびっくりした顔で犬を見つめる。その奥さんの表情に「あらあら…」と困惑した色が浮かぶ。
捕まえようとして追うのだが、犬はこちらの走る速度を計算し、追いつかれない程度に余力を残して楽しんでいる。その余裕たっぷりの風情が憎たらしい。右と思えば左。左と思えば右。巧みなボールさばきでディフェンダーをかわすサッカー選手を思わせる動きで、面白いように飼い主をオチョクる犬に対して、キャンプを楽しむ人々の視線が集中する。
「頼む! 俺を愛しているなら、これ以上恥をかけさせないでくれ」という願いも虚しく、自由な散歩をさんざん楽しんだクッキーが、疲れはてて座り込んだ私の前に帰ってきたのは、それから10分も経ってからだった。
「これぐらいで疲れるようだったら私なんか飼えないわよ」という含み笑いさえ浮かべている。
私は、道中彼女があの手この手と繰り出してくる誘惑に耐えるだけで必死だった。車内で食事をするときなど、私がパンをかじっても身を乗り出して「ワフ!」と流し目を送り、チーズを口に入れるのを見ては「ワウ!」と悩ましく肢体をくねらせる。テーブルの上に焼き肉弁当など広げようものなら、口の中に入れた肉片までもぎ取ろうとするくらい濃厚なキスを迫ってくる。情熱の女なのである。
それでいて、普段家にいるときは保身的なふるまいにも長けている。例えば私と女房の間で夫婦ゲンカが起こりそうになると、会話の流れで分かるらしく、「窓の外にいるのは蝶々かな…」ととぼけた顔をつくりながら、さりげなく離れ始める。さらに夫婦がお互いに激昂してくると、もう視界のなかにいない。とばっちりを食うのを恐れて、毛布の下なんぞに潜って寝たふりをしている。そういうしたたかで、情熱的な女と迎える夜はどんなものか。
当然、寝かせてくれない。
夜中になっても「喉が渇いた。水を飲ませろ」と冷たい鼻を頬に押しつけて起こし、「ウンチが出た。始末しろ」と、また起こし、「枕で寝たいから全部よこせ」とばかりに、渾身の力を込めて人の頭を押しのけ、自分ひとりで枕を占領する。
とても寝られたもんじゃない。
広々したフロアベッドをすべて彼女に引き渡し、こちらはすごすごとバンクに逃げ込む。やれやれ、今日もまたバンクで独り寝か。

