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ひとくちJournal

● vol.004 子供が野外で遊ぶことを禁じる母親たちの出現

芥川賞作家の藤原智美氏が書いた『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』(詳伝社)は、育児問題を軸に、日本の育児法や幼児教育が取り返しのつかない方向に進んでいるのではないかということを警告する書である。今回の「1口ジャーナル」では、この本を紹介してみたい。

なぜ、そういう気になったかというと(私事で恐縮だが)、先日こんなことがあったからだ。

知り合いに3歳の女児を持つ母親がいた。彼女と雑談していたおり、私は「お嬢様もそろそろキャンプなどに連れていける年になりましたね。今度ご一緒しましょう」と誘ってみた。

彼女は「はぁ…」と取りつくろったような笑いを浮かべたまま黙っている。何か事情があるのかと思い、「キャンプにあまり興味はないですか?」と尋ねてみた。

すると「いろいろな汚染が心配されるので、安全な場所でないと遊ばせたくないのです」という答が返ってきた。

汚染という言葉から、私はアスベストの粉塵公害とかカドミウムの流出などという環境汚染のようなものを頭に浮かべた。確かに、今の世の中は昔と違った形の公害問題が顕在化しつつある。地域によっては、そういう公害による被害を受ける場所もあるだろう。きっと彼女は環境問題に高い意識を持っており、そういうことを言おうとしたのだろう、と私は解釈した。

しかし、彼女がいうのは公園の砂場にまぎれたノラ猫のフンに混じっているトキソプラズマ菌の話とか、毛虫の毒針毛による皮膚炎の話だった。トキソプラズマ菌は発熱やリンパ腺の腫れをもたらし、毛虫による皮膚炎はジンマシンのような症状を招くという。そういう心配をしたくないから、あまりアウトドア的な環境に子供をさらしたくないというのだ。

頭の中がガーンとした。親はみんな子供を自然のなかで遊ばせることを望んでいると思い込んでいた自分の常識がガラガラっと崩れたように思えた。

確かに、彼女は子供の身の安全をしっかり考えているのかもしれない。しかし、動物のフンに混ざった菌とか毛虫による皮膚炎などに、昔の親たちは頓着していただろうか。彼女はそういう危険(?)を回避した結果、自分の子供が運動神経も十分に発達しないひ弱な人間になってしまってもかまわないのだろうか。

昔の人が考えていた育児観とはとてつもなく異なる考えが今急激に台頭してきている。そう思ったときに、最近読んだ『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』という本を思い出した。

同書は、腕のない人体の絵を描く子供が急に増えてきたという一点に注目し、そこから「今、子供たちの世界に何が起きているのか」ということを、様々な調査やデータに基づいて追求した本だ。理屈だけを追った書物とは違い、推理小説のような構成になっているユニークな読み物である。

著者は「腕のない絵を描く子供たち」をつくり出した犯人を探し出すために、子供絵画教室の指導者、育児に携わる主婦たちへの聞き込み捜査を開始する。新聞、雑誌などから膨大なデータも集める。次第に明確になってくる“犯人”の足どり。やっと“犯人”を捕まえる。しかしそこにはアリバイが…。捜査は振り出しに戻る。

…というタッチで書かれた本だ。

「腕のない絵を描く子供」たちの背後には、現代社会の過度なストレスによって、窒息死寸前になっている無数の母子たちがうごめいている。言葉を換えていえば、これは現代社会に対する“告発の書”なのであるが、著者が小説家だけあって、かなりの部分が取材した人との会話などで構成されている。そのため、抽象的な言い回しが苦手な人にも分かりやすくなっている半面、硬派の評論を読み慣れている人には多少まどろっこしく感じられるところもある。

以下は本書の要約である。ただし、単語の選択や表現方法などは必ずしも著者のオリジナルをそのまま採用してはいない。かなり紹介者の主観の入った要約であることは付記しておく。

また、本書の面白さは、前述したように推理小説の謎ときの手法を使ってスリリングな展開を見せるところにあるのだが、ここではその結論の部分だけを抜き書きした。原文は決してこのような無味乾燥な言い回しではないこともお断りしておく。

この要約を読まれただけでも、子供をアウトドアに出せなくなってしまった母親がなぜ生まれてきたかということがお分かりいただけると思うが、もちろん、さらに興味を抱かれた方はぜひとも原典にあたっていただきたい。

【要約】

<子供たちが描く人間の絵から「腕」がなくなってきた>


ここ数年、腕のない人間の絵を描く子供たちが増えている。あるいは、頭の部分に黒い球体が乗った人体を描いたり、顔の輪郭のラインを青く塗ったりする「いやーな感じ」の絵を描く子が多くなっている。

それだけでなく、絵を描かそうとすると、すぐ「疲れた」「肩が凝った」などといって拒否する子。何に対しても関心を示さず、ただボォーッと時間をつぶしてしまう子。さらには、目をつぶれない子。言葉の聞き取りがおぼつかない子。数を数えられない子など、人間としての本質的な部分に、何か重大な異変が起こっているのではないかと疑わせるような子供たちが急増している。

不思議なことに、そういう子を持つ親が育児や教育をサボっているのかというと、そうではない。むしろ母親が専業主婦で、育児に熱心な家庭の子供にそういう傾向が強い。ならば、育児指導そのものに大きな問題があるのではなかろうか。

<80年代からは過保護な育児方法が主流となる>

育児指導は時代によって変わる。日本の育児指導が大きく変わったのは1985年だ。それ以前は、「生後10ヵ月を過ぎたら、母乳はきっぱり止めよう」という突き放したような考え方が主流だった。そうしなければ、母親が睡眠不足になって十分な育児ができなくなるし、子供も甘えん坊になるからというのが理由だった。また「添い寝は赤ちゃんを窒息させる危険もあるし、添い寝の習慣をつけると、あとでお母さんが苦労する」ともいわれていた。

ところが、1985年を境に「母乳はきっぱり止めよう」という強い言い回しが影をひそめ、「子供が自然に母乳から離れていくのを待ってもよい」というソフトな言い回しに変わった。添い寝に関しても、「添い寝はスキンシップとして大事」というふうに変化した。「抱きぐせがつくのではないかという心配よりも、スキンシップが足りないために起こる障害の方が重大だ」という見解が大勢を占めるようになったのである。

では、なぜ1985年に、日本の育児方針に大きな転換が訪れたのだろう。

1980年代から社会問題化してきた中高生による校内暴力などは、1984年あたりにピークとなった。世論は、その理由を「働く母親が急増して、育児がおろそかになったせいだ」と見なした。『母原病』などという本もベストセラーになり、子供の精神病も含め、母親の子育てに問題があるという議論がまき起こった。

スキンシップ信仰は、そういう社会風潮を背景に台頭した。親が子供の幼児期にもっと時間やエネルギーをかけ、子供を温かく抱きしめていかなければならないということが常識化されてきたのである。

<家庭料理よりコンビニ弁当を選ぶ子供たち>


しかし、そのためにどういう結果が生まれることになったか。

何から何まで過保護になることが美徳化されるような風潮が生まれてきたのだ。そして、自分の子供が社会や他人や自然から危害を加えられないようにと、母親はひたすら自分の子供をシェルターの内側に隠し始めた。

たとえば、それまで公園で遊ぶ幼児の姿を見るのは当たり前の光景だったが、過保護育児が浸透するようになってからは、公園などの屋外で遊ぶ幼児の姿は激減した。

「屋外で遊ぶといろいろ汚いものがあって、それを口に入れると心配だ」(※ 冒頭に掲げた母親の例はまさにこれにあたる)

「知らない子供たちとケンカを始めないかと思ってヒヤヒヤする」という母親が増えたからだ。

汚いものを口に入れるといっても、昔の子供たちはそういう環境をものともせずに生きてきた。また、他人への信頼感や思いやりは、ケンカや仲直りなどの体験を通じて芽生えるものだが、公園から遠ざけられることによって、そういう機会も子供たちから奪われていった。

過保護が当たり前になってきて、食卓の光景も変わった。食卓にコンビニ弁当やレトルト食品がのぼるケースが圧倒的に増えたのだ。それは母親が手を抜くからではない。そうしなければ子供が食べてくれないからだ。

栄養を中心に考えた食事は、味付けの濃いコンビニ弁当やレトルト食品よりも刺激が少ない。スナック菓子などの味に慣れた子供たちは、外食の刺激的な味付けでなければ食べないようになる。

昔の親は「食べたくなければ食べなくてけっこう」と言うだけで、それに代わる食事を用意したりすることはなかった。しかし今の親は、子供に食べてもらうために、仕方なくコンビニ弁当などを並べてしまう。

それが続くうちに子供の嗜好がますます固定化し、自分の知っている食品以外のものには拒否反応を示すようになる。ヨソの家庭料理などには興味を示さなくなるし、知らない素材を使った給食には目も向けなくなる。

微妙で繊細な味を覚えることもなくなるので、味覚が発達せず、好き嫌いも激しくなる。当然栄養も偏り、すぐに疲れたという子、元気のない子が増えていく。

それを避けて、子供に家庭の手料理を食べさせようと努力する母親は、食べてもらうことにも一喜一憂するようになり、それが母親へのストレスとなっていく。

<幼児に全能感を与える育児法はどのような子供を生むか>


現代の母親が子供から受けているストレスを男たちは知らない。いまだに男の育児指導者たちは、子供に「全能感」を与えようなどとのんきな主張をくり返している。全能感というのは、自分の欲求が完璧に満たされ、何一つ不満を感じない状態を意味する言葉だ。

この幼児期の全能感を大事にするという主張は、人間として一度そういう状態を体験しないと、幸せとか優しさという人間として必要な基本概念を理解できない子供になってしまうという説に基づいている。

しかし、そういう論には「赤ちゃんは遠慮することがない」という視点が欠けている。乳幼児は自分の要求を一二分に通そうとする。常にそれに応えてやると、赤ちゃんの全能感は確かに満たされるが、「がまんする」ことが覚えられなくなる。そのため、子供は「世の中は自分の思い通りになる。自分は王様だ」と思い込むようになり、やがては「自分の思い通りにならない世の中や他者」に対して簡単にムカついたり、キレたりする若者になってしまう。

スキンシップ育児が広まったのは育児指導によるものだったが、それを多くの母親が支持した背景には母親側の事情もあった。

子供を厳しくしつけると、当然子供側から反発が生じる。子供が泣くだけでも親には大きなストレスがかかる。かつての育児指導では「子供は泣くことが当たり前なのだから、親がそれに耐えなければいけない」と指導された。しかし、スキンシップ育児では、それを回避するための「添い寝」や「際限のない母乳支給」が肯定されるようになった。子供を泣かせないことを一義的に優先するスキンシップ育児は、親にとっても安心できる方法だったのだ。

こうして親がトラブルを回避しているうちに、子供は幼児期の全能感をそのまま維持した状態で成長していく。

思春期を迎える頃には、母親に乱暴な口を聞く、気に入らないと部屋中に物を投げつける。あげくの果てには母親に飛び蹴りを食らわせる。よくある家庭内暴力は、幼児期に得られていた全能感が忘れられないために、それが満たされない状態を苦痛と感じる子供の叫びなのだ。

<幼児虐待は母性の欠如ではなく、母性の過剰による>


不思議なことに、スキンシップ育児が広まると同時に、母親がわが子をわずらわしく思ったり、暴力を振るったりするケースも増えてきた。

幼児の生活に関するアンケートを取ると、「9割以上の母親が子供をかわいいと思う半面、6割がわずらわしく感じる」と訴えている。さらに「子供に八つ当たりしたくなる」という回答が6割も超えるようになる。

芹沢俊介の『母という暴力』という本によると、「生後11ヵ月から3歳ぐらいの子供に対し、70%から90%の若い母親がなんらかの理由で叩いている」という。しかも大半の母親は、その暴力を肯定している。

子供を可愛がるスキンシップ育児と、この母親による暴力の関係はどう考えればいいのだろうか。

スキンシップ育児は、子供の際限なく拡大する欲望をできる限り満たしてあげようという思想だから、それに追いつけずに疲れてしまった母親たちをたくさん生み出すことになった。核家族化された現代の家庭には、育児を分担してくれる祖母や祖父もいなくなった。

また、スキンシップ育児が叫ばれるようになった1985年当時はバブル経済の真っ最中。父親たちは会社に滅私奉公する一方、退社後は遊びにうつつを抜かし、家庭に帰ることがなかった。

育児に対するストレスは母親だけが一身に背負うことになった。部屋のなかでじっと子供だけと向かい合う母親。その極限状況で、いつ泣き止むとも知らない幼児の泣き声を聞き続け、その際限を知らないわがままを見続けたら、そういう存在を「憎らしい」と思わぬ母親が出てくるのは想像にかたくない。

イライラした母親にとって、幼児の無邪気ないたずらは許されないものに思えてくる。幼児は家具や家電をいたずらして壊したりするによって、モノと接触する要領を学んでいく。しかし、耐える力を失っている母親には幼児の無邪気ないたずらが許せない。彼女たちは、そのようないたずらに対して反射的に制裁としての暴行を加える。それはストレスによる過剰反応なのだが、たいていの母親はそれを「しつけ」だと思い込んでいる。

世の中で起きている幼児虐待は、「母性の欠如」として語られることが多いが、実は「母性の過剰」に起因する。“母性”というものをこれ以上に発揮できないほど発揮しているのに…という母の思い込みが、逆に、それに応えてくれない幼児への憎しみと変わるのだ。このアンビバレンツな思いは、仕事を持っている母親よりも、育児に時間をたっぷりかけられる専業主婦の方に強く現れる。

<テレビだけが悪者か?>


こういう母親のストレスを回避するひとつの手段は、子供の関心をテレビやビデオに向けさせてしまうことである。厚生労働省が2004年に発表したデータでは、2歳半の子供の1割は4時間以上テレビを見ているという。しかし、これは親が“見させている”と言い換えてもいいだろう。

大方の世論は、テレビが育児上悪影響を及ぼすという見方で一致している。その多くは、刺激の強い俗悪番組が子供に良くないという意見に集約される。

しかし、子供は意外とテレビだけにくぎ付けになっているわけではない。親が遊びを提案すれば、多くの子供はテレビよりも親との遊びの方に興味を示す。

テレビが子供に悪影響を及ぼすというのは、多くの親が、子供の意識をテレビに向けさせることで、自分の育児の義務を放棄してしまうからだ。親とのコミュニケーションが一番必要なときに、親自身が子供と直にコミットする時間をつぶしてしまっているのだ。

子供は親がかまってくれないから、仕方なくテレビを見る。そのうちそれが「遊び」だと思い込むようになる。

テレビに出演する人たちが発する言葉は、母親が話す言葉と変わらぬ日本語だ。多くの親は、それによって子供の語彙が増えると思っている。しかし、人間のコミュニケーションというのは、生きた人間同士の言葉のキャッチボールによって初めて生まれるものだ。幼児側からの問いかけに対して何も反応しないテレビは、単に光と音が乱反射する2次元の物体でしかない。

しかし、そのようなことが仮に理解されたとしても、テレビに子供が「熱中」する時間が訪れたときにやっと一息つける母親たちにとっては、テレビは必需品であり続けるだろう。テレビがなくなれば一番困るのは子供ではなく親なのだ。

<幼児からの早期教育は何をもたらしたのか>


子供のお稽古ごとや早期教育が流行ってきたのも、こういう息苦しさから解放されたいという母親が増えてきたからである。少なくとも、そういう機関に子供を預けている時間だけは、母親が子供から解放されるからだ。

しかし、そういう早期教育は、子供の立場から考えて本当に意味のあることなのだろうか。これにはいろいろな疑問が出てくる。

今は0歳から幼児を教育するような様々な教材が出回っている。絵や文字を書いたカードを見て瞬間的にいいあてるフラッシュカード。英語の子守歌のテープ。家具屋や電化製品にアルファベッド、カナなどを貼って言葉を覚えさせるネームプレート。

多くの親たちは、他人の子より早く教育すれば、それだけ自分の子供の受験や進学が有利になると信じ込んで、そういう教材を積極的に家庭内に採り入れている。子供が5歳ぐらいになると、英会話、ピアノ、バレーなどの教室に通わせる親が多い。

しかし、そういう早期教育を疑問視する声が今高まっている。幼児の早期教育は本人の能力を高めるよりも、ストレスを加速させて、生命力そのものを奪っていくという見方すらある。

子供には、これらの早期教育を拒絶する力はない。それを負担に思っても、なかなか表現するすべを知らない。だから、表面はニコニコ顔でお稽古ごとに通っている子供が、実はその内面にとんでもないストレスを溜め込んだとしても、親はそれに気づくことができない。

1960年代にアメリカで動物を使った認知実験が行なわれたことがあった。その実験から、電気ショックを動物に与え続けると、動物はショックを避けられないものとして「学習」してしまうことが分かった。そうなると、動物は逃げられるにもかかわらず、じっと耐えてしまう。これを「無力感の学習」という。

これは人間の子供にもあてはまる。つまり、自分の許容範囲を超えた課題を与え続けられると、子供は無力感を学習して、黙って耐えながらその課題を心のなかで無視しようと努める。そうなると、幼児期にせっかくお稽古ごとを学ばせてもそれがモノにならないどころか、小学校にあがる頃には、周りの世界に対する好奇心や、新しいものにチャレンジする情熱なども失ってしまう。

絵を描かそうとすると、すぐ「疲れた」という子、「肩が凝るから嫌だ」と拒絶する子など、無気力な子が増えてきた背景には、早すぎた幼児教育が影響していることも十分に考えられる。

昭和30年代の小学校1年生と現在の1年生を比べると、入学時における学力は、平均すると圧倒的に今の子の方が高いという。しかし、小学校を卒業するときの学力を比べると、逆に今の子の方が低いのだそうだ。そのことから、幼児教育がいかに効力がないかがはっきりする。

専門家は、「むしろ就学前には学力などつけない方がいい」という。3歳ぐらいまでは、学習する能力ではなく、別の脳をつくる時期だからだそうだ。

<個人の早期教育よりは仲間との遊びが大切>


この時期に必要なのは遊ぶ脳をつくることだ。

2〜3歳ぐらいになると、子供は「見立て」遊びをするようになる。例えば積み木を自動車に見立てたり、大きなぬいぐるみをお母さん、小さなぬいぐるみを赤ちゃんに見立てて遊ぶ。これは初歩的な遊びかもしれないが、目前にないものを想像する力を養う上できわめて大切な遊びだ。

こうした遊びがグループで行なわれる場合は「ごっこ遊び」へ進化していく。大きなぬいぐるみをお母さんに見立てるということが、グループ内での共通の認識となれば、そこに「象徴を共有する」という体験が生まれ、それが対人関係を築いていくうえでの大きな力となる。子供たちはそうやってコミュニケーションの基礎を学んでいく。

しかし、2〜3歳の時に親が早期教育に力を入れすぎると、このような遊びの場を子供たちを奪ってしまうことになり、子供は遊びを通じて養うことのできる想像力や他者との交わり方を学べなくなってしまう。

何もしていない時間を、人々は退屈でヒマな時間だとする。今の子供や若い世代は、そのヒマや退屈をことのほか嫌う、というより恐れている。とにかく何かやっていないと、自分が保たれないように見える。

その理由はやはり、隙間時間のない、忙しい日々を子供のころから送ってきたからに違いない。

現代の子供や若者は、退屈を経験しないまま成長する。彼らはテレビもビデオもなく、コミックもゲームもケータイもコンピューターもない時間というものを知らない。自分しかいない時間というものを経験したことがない。もし彼らにそんな時間を与えたら、彼らの精神はきっと1時間ももたないだろう。

しかし、退屈はひとつの知的な体験である。それは頭脳活動の停止ではなく、むしろ本質的な活動が開始されているときなのだ。手元にゲームはおろか、本も紙も鉛筆さえないとき、それを乗り切るのは空想を主とした想像力である。

この想像力が豊かになればなるほど、一つの出来事を多面的に捉えられることができるようになり、自分を取り巻く世界が面白いと感じられるようになる。そういう思いが他者に対する好奇心となり、優しさとなる。

しかし、今の子供たちは退屈を恐れるあまり、みずからつくり出した空想に馴染むことがない。彼らがイメージする世界はだいたいコミックやゲームやテレビといった借り物の映像によって出来上がっている。この想像力の貧困は生きていく上で、このうえなく困難な状況をつくりだす。

今小学校では、新入生が入ってきてからの最初の一学期は、まず授業にならないという。席に着かせ、静かにさせるだけで1時限が終わってしまうのだという。みな空想する力が弱くなっているから、教師が目の前で掲げる教材や黒板の文字に興味を持つことができない。黒板の文字は、テレビで見たように急に変形して他の文字に変わったり、蛍光色を帯びて輝いたりしない。そのような変化に乏しい世界は、貧困な想像力しか持たない現代の子供たちの関心をつなぎとめておくことができない。

このような、想像力の貧困を生んでいる原因には、子供たちが共通して遊べる場の消失、スキンシップの名を借りた圧迫育児、さらに不必要な早期教育などの問題が横たわっている。

子供は手をかけるほどいい子に育つというのは、幻想にすぎない。


以上が藤原智美氏の書かれた『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』の要約である。最初に断ったとおり、以上の文章には紹介者の主観も相当混ざっている。紹介者の独断で補足してしまった説明も多い。しかし、基本的に著者の意向はだいたい汲んでいると思う。

本書で一番の鍵となる部分は、子供が、子供同士や親と遊ぶ時間が昔と比べて圧倒的に少なくなっているという指摘だ。また、子供の想像力を養うには、何もない場所に子供を連れ出して、「退屈」になじませることも必要だという説もとても貴重な意見だと思う。

私はとっさに「キャンピングカーの出番だ!」と思った。たまには子供を塾やお稽古事から解放してやり、キャンピングカーを使って何もない場所でのんびりさせてやることはとても大事なことではないのか。

キャンピングカーを知っている子は「腕のない絵を描かない」。

今後はそういうデータが話題に登ってくる時代が訪れるような気がする。(町田)